● アメリカの陪審制を支えるもの
判事補・米国留学中 
 日本が均質な社会だとすれば,アメリカはその対極である。人種,言語,宗教を異にする様々なグループがあって,それぞれが独自の文化を形成している。彼らは,自分の属するグループの人々のことは理解できても,他のグループに属する人々のこととなるとはっきり言ってよく分からないと告白する。これに大きな貧富の差と強烈な差別意識とが結びついて,グループ間の移動と相互理解をいっそう困難にしているように見える。この意味で,アメリカは均質でない社会であり,固定的な階級社会であり,またその帰結として不条理な社会でもある。

 ところで,アメリカで陪審制が支持されてきたのは,イギリスによる支配からの独立という建国の経緯もあって,司法の民主的コントロールという価値がとりわけ重視されてきたからだと言われる。しかし,私は,アメリカの陪審制を支えるものは,そのような抽象的なメンタリティーではなく,むしろ実際的な必要性ではないかと最近考えるようになった。

 その必要性とはこういうことである。つまり,均質な社会にあっては,その一員である裁判官も多かれ少なかれそこでの思考様式に支配される。したがって,その社会で生起する事件について,関係者の行動準則を理解した上で事実認定をすることが比較的容易であるし,裁判官ごとの当たり外れもそれほど大きくはならない。これに対し,アメリカのような均質でない社会では,裁判官は法律のプロとして安定した法解釈はできても,自分と異なるグループの人々の行動準則を正確に把握することはできず,それゆえに的確な事実認定をなし得ないという事態がしばしば起こる。もちろん,裁判官ごとの当たり外れも大きくなる。そうすると,事実認定に関しては,次善の策として,社会全体からランダムにかつ複数の者を選んで判断者とする陪審制によらざるを得なかったのではないか。様々なグループの人たちが知恵を出し合って判断した方が間違いが少ないし,そうして出された結論であれば負けた側もまだあきらめがつきやすい。

 アメリカの陪審制は,実はこのようなすぐれてプラグマティックな発想に基づいて維持され発展してきたものではないかというのが,この国でしばらく生活してみた一外国人の無責任な感想である。

平成16年11月)