● 文字の文化と言葉の文化
下澤 悦夫 (岐阜家裁) 
 私は昭和30年代に大学に入った世代である。自慢にはならないが,英会話は全くできない(10年ほど前に少し独習したが)。若い頃は英語の本を読むことは何とかできた(今は殆どできない)。駅前留学でも日常英会話ができるようになる今どきの若者が羨ましい。

 若いときには,英語をペラペラしゃべる連中を頭の中味も薄っぺらだと馬鹿にしていた。その報いを今になって受けている。欧米の思想,文化を学んで日本社会の中で活躍するためには,英語や独仏の言語で書かれた書物を読むことができれば十分であると考えていた。話すよりも読むことの方が上等だという考えである。

 その後大学を出て,私は裁判官となった。主として民事裁判を担当した。民事裁判では弁論の期日が開かれ,法廷において原告,被告双方からの法的,事実的な主張が戦わされ,各主張を裏付ける証拠の取調が行われるということになっている。そもそも弁論とは,弁論術,雄弁術という言葉があるように,声に出して言葉で意見を戦わせることであろう。討論,ディベートもこの流れの中にある。

 ところが,従来法廷での弁論とは言いながら,実際は双方当事者の提出する準備書面を交換するだけで弁論期日を終えるのが普通であった。閉廷した後で,裁判官は受理して記録に綴られている準備書面を熟読玩味し,さらに証拠書類を検討して判決書を起案する。当事者の提出した書面上の主張文言を付き合わせ,その当否を検討する。裁判官はそれこそ文章の中の一字一句をもおろそかにしない。また,何時どこで誰から読まれても非の打ち所のない完璧な判決書を書き上げようとして心を砕く。そうすべきだと我々裁判官は先輩から指導されたものである。文章は正確無比であるが,話すこと聞くことは不得手な裁判官の多いゆえんがここにもある。

 これは英語は読めても英会話はできなくて当然という文化土壌が生み出した産物でもあろう。