● 映画「ザ・ハリケーン」を見て
井垣 康弘
久しぶりの映画鑑賞であったが、あふれ出る涙をこらえきれず、手持ちのティシュがなくなり、椅子の背中に張ってあった「関係者席」という紙を破って使用する始末。若い女性で満員のホールで恥ずかしい思いをした。
事件は、十一歳の黒人少年、カーターが窃盗などの罪で少年院にたたき込まれるところから始まる。日本でいえば、小学校六年生の男の子を、中学、高校から大学卒業間際まで十年間、社会から遮断して施設内に封じ込めるというもので、むちゃくちゃである。地域から放逐され、仲間に対する見せしめとされたようだ。
だが、カーターは、プロボクサーとしてよみがえる。チャンピオンの栄光に包まれていたとき、残虐な殺人事件が起きた。なにびとかが白人専用バーを襲撃し、中にいた白人三人を銃でみな殺しにしたのだ。そして、カーターに人種偏見的悪意を持っていた刑事が彼を逮捕し、物証を偽造し、証人に偽証させて、終身刑にしてしまった。日本の無期懲役と異なり、原則として、生きたままでは社会に帰さないという過酷な刑罰である。
このあたりは、見ていていたたまれない思いになった。本来の最初の審理の他、再審も陪審員による審理が行われたのに、一回十二人、二回で二十四人の陪審員が全員カーター有罪の評決を下したのだ。上品そうな顔立ちの白人ばかり十二人の陪審員が映るシーンでは舌打ちしてしまった。人種偏見が疑われるケースでありながら、陪審員が白人ばかりとはどういうわけだと腹立たしい思いがした。
しかし、だから陪審制度はおかしい、陪審員は無能だというのも間違っている。刑事の証拠操作が巧妙で、判事も検事も弁護士も皆だまされてしまったのだ。証拠を偽造されると、裁判システムは弱点をさらけ出すのである。人種偏見の壁が厚く、弁護士たちがえん罪の証拠を集められなかったのも痛かった。この結果は、法律実務家に取っては、まことに厳しくつらい。現職裁判官が試写を見ていることはだれも知らないはずであるが、非難の視線が私に集中するような錯覚を覚えて、思わず「申し訳ない」とつぶやいてしまった。また獄中のカーターが、妻に対し「愛されているのがつらい」といって離婚を迫るシーンでは、泣きじゃくってしまった。
そこで同じ黒人のレズラ少年が登場する。カーターがかって「ちょっとしたこと」で十年も少年院に入れられたのに対し、レズラは、養育困難な両親のもとからカナダ人のボランティアの人たちに引き取られ、学校教育を受けていた。レズラは、カーターが獄中で書いた「16ラウンド」という本を読んで魅せられ、彼に手紙を出す。二人の運命的な出会いだった。
レズラとその保護者たち(ボランティア)は、カーターのえん罪を晴らすため、刑務所の近くに移り住み、弁護士から山のような資料を見せてもらい、証拠を総点検する。証人にも次々とあたっていく。これまで口をつぐんでいた人たちが、なぜかレズラたちには真実を話してくれる。そしてついに、弁護士たちがどうしても手に入れることができなかった、えん罪の決定的証拠「アリバイの物証」をつかむのだ。
そして、一か八か、州の裁判所を飛び越して連邦裁判所に再審を申し立てる。法廷の場面では、例によって、判事閣下は偉そうな態度で、検事と弁護士をあごで使う。アメリカの連邦判事は、弁護士や検事から選任された「法曹一元」制度の裁判官。定年がなく、一生、判事であり続ける長老だけに貫禄十分。取り下げて州の裁判所に提訴せよと迫るが、カーターは応じない。不安に駆られたレズラは、もし正義が通らないなら、ぼくがカーターを脱獄させると言い募る。優等生が「大それた非行」をするとまで腹をくくったのだ。
さて、法廷で「16ラウンド」が始まった。終身官と終身刑の直接対決だ。カーターは「私を救ってください」などとはひとこともいわない。「判事!あなたの良心を、合衆国の良心を吐き出しなさい」。カーターの言葉のパンチは、判事の誇りを激しく揺さぶった。
判決宣告シーン。老判事閣下は、やさしい目で、「カーター君、ありがとう。レズラ君ありがとう。君たちのおかげで合衆国の正義は守られた」と語っているように見えた。老判事は、カーターやレズラをその場で抱きしめたい気持ちだったろう。
レズラ少年の夢は実った。脱獄させる罪を犯さずにすんだだけでなく、合衆国を救ったのだ。この映画は実話であり、レズラはその後、ロースクールに進み、カナダで弁護士になったという。さぞ立派な仕事をしているだろう。二、三十年後には、「法曹一元」制度で判事となり、国の正義を体現する立場に立っているかもしれない。
(この原稿は、既に産経新聞に掲載されたものです。)
日本裁判官ネットワーク