● ある判決言渡しの思い出 |
2012年10月1日
サポーター 井戸謙一
(元裁判官) |
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平成5年12月16日、その日は、初冬にもかかわらず、朝から穏やかな陽が降り注いでいた。
私は、いつもの日より緊張して、午前9時前、大阪高裁第2民事部の裁判官室に出勤した。午前10時から、平成2年の参議院(選挙区選出)議員選挙を対象とする参議院定数訴訟の判決言渡しが予定されていた。開廷日の朝、私は、その日に弁論期日が開かれる事件の手控えを読みながら、予定の手続を確認するのが日課であった。その日も、同じように、手控えを机の上に並べたが、容易に集中できなかった。
私たちが言い渡す予定の判決は、我が国初めての違憲判決であり、左陪席の私が主任裁判官だった。参議院(選挙区選出)議員選挙の定数配分が憲法が定める法のもとの平等(14条)に違反して違憲であるから、選挙が無効であることの確認を求めるという、いわゆる参議院定数訴訟は、それまでに何回となく提起されていたが、いままで日本の裁判所で言い渡された判決は、すべてが合憲であるという結論であった。いわゆる違憲状態判決(今の状態は憲法の趣旨に反するが、国会の合理的な是正期間が過ぎていないので、違憲とまでは言えないという趣旨の判決)すらなかった。
一方、衆議院議員選挙の定数訴訟では、違憲状態判決及び違憲判決がすでに出ていた。まず、裁判所が違憲状態判決を出し、それでも国会が定数配分を改正しないで次の選挙を実施した場合に違憲判決がでるというのが一般的な理解だった。なお、違憲判決の場合でも、選挙を無効にすると影響が大きすぎるので、違憲であることの宣言に止め、選挙を無効にはしないというのが慣例になっている(いわゆる「事情判決」という。)。
平成2年の参議院(選挙区選出)議員選挙における定数格差は、6.59倍に及んでいた。事件を受理したとき、いくら参議院の特殊性を強調しても、この格差を正当づけることはできないから、少なくとも違憲状態判決は出さなければいけないと思ったし、裁判長、右陪席裁判官も賛成してくれると思った。しかし、過去に違憲状態判決すら一つもないという状態で、いきなり違憲という結論は難しいかと考えていた。ところが、合議の結果、違憲判決を出すことに決まったのである。
午前9時20分ころ右陪席裁判官が、午後9時30分ころ、裁判長がそれぞれ出勤した。我が部の裁判長は、話好きで、毎朝登庁すると、しばらく仕事とは何の関係もない世間話をするのが常であった。当時の大阪高裁の多くの部では、雑談する時間も惜しんで皆が黙々と仕事をしていたから、我が部は、異色の部だった。その朝も、裁判長は、机の上に鞄を置くや、いつものように、たわいもない雑談を始めた。右陪席も、いつものようにその相手をした。判決書が完成した2,3日前まで、論理の展開や言い回しについて散々議論したのに、そのことは過ぎてしまった過去の出来事であるかのようだった。「いよいよ今日ですね。」という言葉すらなかった。今日が言い渡しの日であることを忘れているのではないかとすら思った。総務課職員を始め、我が部の裁判官室や書記官室に様子を窺いに来る者もいなかった。
最初、私は、戸惑いを感じた。すでに、法廷前には多くの市民やマスコミ関係者が集まり、どんな判決が言い渡されるのか、かたずを飲んで待ち構えているはずだ。裁判所の総務課は、判決言渡し後の報道対応に気を揉んでいるはずだ。裁判官室の外の世界は、いつもと違う時間が流れているのに、裁判官室の中は、いつもと全く同じ時間が流れている。そう考えるうちに、私は、言い知れぬ感動を覚えたのだった。「そうか、これが裁判の独立なんだ。」
どんなに社会的反響の大きい事件であっても、どこからも何の圧力もなく、3人の裁判官だけで議論して結論を出す。当たり前のことであるとはいえ、高裁長官も、高裁事務局長も、他の部の裁判官も、それ以外の何者も、口を挟まない。「注目しているよ」というメッセージすらない。3人の裁判官は、当事者が提出した主張と証拠だけから、結論を出す。結論を出したら、それを判決書という形で表現し、淡々と言い渡すだけであって、名もない多くの事件と何ら変わるところはない。私は、一人緊張していた自分が恥ずかしいように感じた。
その日は、書記官から、言い渡し前に法廷でのビデオ撮影があるので、午前9時55分までに法廷裏の合議室に入ってくださいと言われていた。午前9時50分になると、裁判長は、「そろそろいきましょうか。」と言って、法服に手をかけた。「ああ、やはり裁判長は覚えていたのだ。」と思った。裁判長、次いで右陪席裁判官、最後に私の順で法廷に向かった。一旦、合議室に入り、書記官の合図で法廷に入室した。裁判長は、いつもと同じように、主文を読み上げ、続いて私が作成した判決要旨を淡々と朗読し、言い渡しが終わった。
裁判官室に帰ってくると、裁判長は、早速、次に予定されている事件の進行について、私に意見を求めた。大判決を言い渡した余韻に浸っている暇はないのだった。
余談ではあるが、その日の昼のNHKニュースでは、私たちの判決はトップニュースだった。しかし、夕刊では、一面の左側に記事が載ったものの、トップニュースではなかった。その日、田中角栄元首相が死亡していた。
この裁判長のように,社会の毀誉褒貶に心を囚われることなく,自分の信じるところにしたがって淡々と仕事をしたい,そう思った私であった。しかし,俗物である私は,田中角栄首相に一面トップを奪われたことを,少し残念に思ったのだった。
以上
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(平成24年10月) |
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