● ある和解(2)

簡易裁判所判事  白山 次郎

 交通事故の物損請求事件は,簡易裁判所では定番の事件である。
 今回の事件は,単車と自転車の出会い頭の衝突事故であった。
 高校1年生の男の子が,朝,通学のために自転車に乗って出かけた。路地から出たところで,右から来たバイクと接触し,バイクは転倒。男の子も自転車から投げ出され,自転車のタイヤは大きくゆがんだ。
 バイクに乗っていた男性も自転車の男の子にも幸い,大きな怪我はなかった。
 今回の裁判は,バイクに乗っていた男性が,事故によってバイクが破損した,その修理代等を自転車に乗っていた男子高校生に対して請求するというものである。
 そもそも,バイクと自転車の衝突なら,悪いのはバイクに決まっている,それに高校1年生(15歳)の男の子をわざわざ訴えるなんて,酷い話だと多くの人は考えるに違いない。
 しかし,現場の交差点は,自転車が走ってきた道路の方がバイクの走ってきた道路より随分と細く,しかも一旦停止の白線があり,カーブミラーも設置されている。私たちが,この種の交通事故で最もよく使う,過失相殺基準のいわゆる「緑の本」によれば,こういう場合の過失割合は,自転車:バイク=40:60になっている。つまり,バイクが一方的に悪いわけではなく,自転車の方も損害額の4割は負担すべきであるとされているのだ。これが法律家の世界の常識なのである。
 さらに,高校1年生は,未成年であるが,未成年といえども,こういった事故によって生じた損害の賠償責任を負わなければならない。責任能力は概ね小学校を卒業する12歳を目安に認められるというのが,これまた,法律家の世界の常識なのである。
 法廷に入ると,被告席には,学生服姿の男の子とその両親が座っている。原告席には,弁護士とジャンパーを着て憮然とした表情の中年男性がいる。
 私は,弁論の更新手続をした後,原告に対し,次のような求釈明をした。
 「バイクの修理費等の損害額の合計が25万円ということで,請求額が,15万円となっていますね。そうすると過失割合を6割として請求されておられるようですが,このような事故類型では,基本的な過失割合は4割となるのではないでしょうか。6割というと,何か特別な修正要素が必要ですが・・・・」
 すると,原告代理人は慌てて「あっ,間違いました。4割ですから,そうですね,10万円ですね。逆に計算してました。・・・・訂正します。」
 おいおい,しっかりしてくれよと言いたくなる(まぁ,この点を見過ごしたまま証拠調べ期日を入れる前任の裁判官にも問題があるが・・・)。
 請求を減縮させ,原告,被告双方の本人尋問を行った後,和解に入る。
 原告代理人によれば,被告の家に何度も修理費の請求をしたが,父親はそんなものを払う必要はない,うちの子供は一旦停止したといっているし,そもそも,こっちだって自転車が壊れているじゃないか,裁判でも何でもやってくれの一点張りであったという。弁護士は,被告の父親に,子供さんを相手に裁判をすることになるし,判決をもらったら,子供が働きだして給料をもらうようになってから,それを差し押さえることもできるが,どうかと多少,強めに言ったところ,やれるもんならやってみろと開き直られ,本訴提起に至ったという。
 はぁ〜,それにしても,その上で請求の趣旨からして間違いかよ〜,そんなことだから被告の父親とも話ができないんじゃないのと突っ込みたくなるところを堪えて,譲歩の余地を探る。
 続いて,被告家族を呼び入れる。
 男の子は学校を早退して法廷に来たのだという。父親は,これも勉強だからと思って学校を休ませたそうだ。
 私は,交通事故処理における法律家の世界の常識を説明しながら,同じように父親に譲歩の余地を探る。
 父親曰く,事故をすれば,まずは何をおいても相手の体のことを心配し,大丈夫か,怪我はないかと聞くのが,ふつうの大人の態度なのに,原告は,ぶつかってこけた後,すぐに息子に対して「どこ見て,運転してるんや,飛び出してきたのはそっちやぞ」と怒鳴りつけ,息子は怖くなって「すいません」と謝ってしまい,一旦停止したことも言い出せなかったという。それに,損害だって,バイクの修理ごときでそんなにかかるはずがない,現に,さっきだって,裁判官から言われて初めて間違いに気づいたように訂正していたけど,裁判官が言わなければ,そのまま15万円請求してきたに違いない,まったく,弁護士なんて適当なことを言って,金をとれるだけとってやれという輩で,信用できないとご立腹である。
 もっともな話である。私は,過失割合の点については,結局のところ,お宅の息子さんが一旦停止したかどうか,今となっては確かめることはできない,さっき法廷で証言してもらったが,お互いの言い分は違うし,決め手になるようなものはない,そうすると,たくさんの事故類型を分析したさっきの6:4の基準で考えるほかないということを説明した。父親はなかなか納得しなかったが,私は「まあ,確かに,事故となれば,まず怪我の心配をするのが普通でしょうね。私にも一人娘がいるけど,子を持つ親としては,そんな対応をされたら,腹が立ちますね。それにしても,怪我がなくてなによりだった。重い後遺症なんかが残ったら,それこそ,こんな悠長なことも言っていられないしね。」と共感すると,父親は半ば呆れながらも,最後にはこちらの説明を理解してくれた。
 次に,損害の点については,バイクの修理費は見積書が出ている以上,仕方がないとしても,併せて請求しているライダースーツやヘルメット,ブーツの損害については,認める考えはないことを説明し,損害額を修理費相当額の20万円を基準とすることで納得してもらった。
 支払関係について,私は,父親が利害関係人として解決金支払義務を負って,支払を約束することで,息子である原告に対する請求を放棄してもらうよう提案し,双方の納得を得た。高校1年生の男子生徒に対して,金銭の支払を命ずる判決をするのは忍びない。父親には,「大事な息子さんにそんなお金を払わせるわけにはいかないでしょう。初めてもらった給料が差押えなんて嫌ですよね。」と説得した。
 原告はこちらの和解提案に対して,あまり乗り気ではなかったが,私は「今回は,幸い,双方に怪我もなく,物損請求ということで済みそうですが,もし,仮にこれが被告が重い障害が残るような怪我をしていたとしたら,どうなりますか。事故なんて一瞬のことで,ちょっとした転倒の仕方や打ち所によって,加害者と被害者が入れ替わるんですよ。私は,たいていの事故は,双方に何らかの落ち度があると思いますよ。不幸な事故によって生じた損害をどう分担していくか,それが法律の考え方であって,相手を苦しめてやろうとか,腹が立つからといったことは考えない方がいいですよ。」と諭した。
 最終的には,父親が利害関係人として解決金8万円を支払,原告は被告に対する請求を放棄したうえで,お互いに権利義務はないという和解が成立した。
 和解が成立した後,わざわざ学校を早退して裁判所に来た被告の男子高校生に対して,私は次のような話をした。
 「裁判はどうだった?最初は,15万円を払えって言われて,結局,10万円になって,最終的に8万円になったでしょう。しかも,お父さんが払ってくれるから,君に対しては,もう原告のおじさんも請求しないってことになったんだよ。これも,君のお父さんが,君に代わって,きちんと言い分を裁判所に言ってくれたからなんだ。お父さんは頼りになるだろ。黙っていてはダメなんだよ。自分の権利は自分で守るんだ。いいお父さんで,良かったね。だけど,君も自転車に乗るときは注意しないと。最近は,自転車どうしの事故や歩行者と自転車の事故も多くなってきているからね。今回,ぶつかった相手はバイクだっただけど,クルマだったら,君は大けがをしていたかもしれないし,相手が手押し車を押したおばあさんだったら,君じゃなくて相手が大けがをするかもしれない。そうなると,10万なんて話じゃなくて,何百万もの損害賠償を請求されるかもしれないんだよ。そういう意味では,君はもう子供じゃないんだから。気をつけないとね。」と話した。
 男子高校生は神妙な面もちで私の話に頷き,その横で父親はまんざらでもない顔をしていた。いずれにせよ,一家を挙げての交通事故裁判は,なんとか話し合いによって決着し,私もほっと胸をなで下ろし,裁判官室に引き揚げたのであった。