● 「判事増えても楽にはならぬ 記録もう一度開くから」 |
さいたま地家裁川越支部判事 竹内浩史
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私のこの都々逸(どどいつ)は、東京高裁の裁判官室で,5年前のある夜に生まれた。
2003年4月に弁護士任官して民事部の陪席になったばかりの新米裁判官の私が、一緒に居残って分厚い記録を読んでいる先輩裁判官に話しかけた時である。
「やっぱりこの仕事量は大変ですね。もう少し裁判官を増やしてもらえると楽になりますのにね。」
「増やしても変わらないよ。」
「どうしてですか?」
「今、3回読んでいる記録を、念のためもう1回読み直すだけだから。」
想定外のお答に絶句し,思わず目が潤んでしまった。
確かにそう言われてみると,日本の裁判官の生真面目な気質からは、結局そうなってしまいそうな気もしてきた。
話は40年も昔に飛ぶが、私の幼い頃の体験で鮮明に記憶している一件がある。
保育園の庭で停んでいると突然2人の女の子が半ベソをかきながら,手を引っ張りあって私の前に来た。
「ねえ、ひろしくん。どっちが悪いと思う?」
喧嘩の原因がどっちにあるのか,私に判定してほしいというのである。ガキ大将でもなく,ただ少し頭が良さそうで,おとなしいだけの私に。幼心になぜ私のところに来るのか訳が分からず,立ち往生するばかりだった。
任官して初めて気がついた。これが日本の裁判官の姿なのだと。
「裁判員制度」導入以前の日本の司法は、学校でガリ勉と思われているような優等生がクラスメートを裁く「優等生司法」だったと思う。このモデルで、日本の裁判官の良い点も悪い点もうまく説明がつく。
優等生の模範のような裁判官が,時間制限なしで完璧な答案(判決)を提出しようと全力を尽くせば、休暇や睡眠も削ってぎりぎりまでオーバーワークをしてしまう可能性が高い。
それが日本の裁判官の美風なのだが、度を越すのもやはり良くない。制限時間(審理期間や労働時間)を設定して厳守していく方が良いのかも知れない。そうすれば、裁判官が仕事ばかりしていて「世間知らず」になる危険も小さくなるだろう。
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