● ある死刑囚に関する随想
 井垣康弘さんの主宰する少年問題の勉強会で,刑務所や少年院の篤志面接委員をされている大川哲次弁護士(大阪弁護士会)のお話を聞く機会がありました。その席で,同弁護士の紹介により,次のような随想が朗読され,大変感銘を受けました。せひ多くの人に読んでいただきたく,平田友三先生(奈良弁護士会)のご承諾を得て,ここに転載するものです。
(伊東武是)
花と鳥と雲
弁護士 平 田 友 三 
  1.  死刑問題については種々論議があるが、このような死刑囚もいた、社会の片隅にこういう人生もあった、ということを知っていただきたくて、私の検事時代の経験で、大分以前の古い話であるが、三八歳で死刑の執行を受けたH君のことを記してみたい。
     同君の犯した事件は、結婚式の資金欲しさから洋品店の夫妻両名を殺害し金銭を奪取しようとしたものであり、当時の新聞には 「自分の欲望を満たすための残忍な犯行で、罪のない人を二人も殺した反社会的な性格は許されるべきでない」などと死刑判決の要旨として報道された。

  2.  検事の時、私はこの事件を捜査し、公判にも立会した。捜査時犯行を否認し、勾留延長後もアリバイを主張して、反抗的な態度で、私の取調べに対し暗い表情でせせら笑い、目をぎらぎら光らせていた。
     私は惨殺の直後検視した被害者御夫婦の血まみれの姿を思い浮べながら、検討した証拠に基づき、「君は嘘をついている。しかし、説明したいこと、弁解したいことがあったら何でも聞く。突然両親を殺されて息子さん三人が遺体にすがって泣いていた。君は人間として、自分のしたことは正直に言わなければいけないと思う」など、こちらの気持が通じるよう調べ室の机の上に何も置かず気を散らさないようにし、きびしく追及し、一心に説得を続けたところ、苦しげに表情が変わり、顔に汗があふれ、「言います」と、犯行を全面的に自供するに至った。「ここだったかな」と、自分でペン書きした見取図に基づいて使用凶器のあいくちも小川の雑草の中から発見された。自供後は、別人のように明るい表情に一変した(これは重罪事件を自白する被凝者に共通の現象だったように思う)。

  3.  小説「罪と罰」の元大学生ラスコーリニコフは、自ら企てた金貸しの老婆に対する強盗殺人行為から逃れよう逃れようとしながら、数千の善事に使うためには、油虫の命と何の違いもない金貸しの老婆を殺して金を奪うことも許されるのではないか、という議論がなされている場所へ行き合わせ、また夜七時にはこの老婆がひとりになって家にいるという話が偶然耳に入る。運命が彼を試練に遭わせ、あるいは嘲笑しているような出来事に次々と遭遇し、犯行に引き込まれていく。痛ましく、本を閉じたくなるが、この事件も捜査を進めていくと同じような気がした。

  4.  同君は一七歳の時犯した強盗殺人事件により懲役一五年の判決を受け、一〇年余服役して仮出獄し、二年たって前記二回目の強盗殺人事件を犯したのであるが、判決書に簡潔に判示されている、同君の供述した犯行の原因、態様を少し補って説明すると、それは次のようなものであった。
     文通によって知り合った女性との結婚を願い(仮出獄中であることは話さなかった)、結婚式の資金づくりをしたいと考えた。しかし、手取り二万三千円の煉瓦工の月給(昭和四三年当時)のうち、七二歳の養父に一万五千円を仕送りしていたので、手持資金がなく、さりとてそれまで多大の迷惑をかけた養父にも相談できなかった。資金捻出に苦慮していたところ、質屋で逢い、再びパチンコ店で隣り合わせとなった二一歳の男から、H市の競馬で八百長をする騎手を知っているから、それを利用すれば莫大な金が儲けられると告げられた(この話はうそ)。また洋品店で、彼女になるべく喜んでもらえるようにとプレゼントを選んでいるうち時間がたち、この店は午後七時二〇分頃から八時頃までは奥さんがひとりで店番をしているという話が耳に入った。
     うそつきと再び隣り合わせ、更にこういう話が耳に入り、この二つのことが結びついた。相談相手もなく、短絡的に目的への到達を急ぐあまり視野が狭くなり、ほかのものの考え方が考えられなかったのであろう。奥さんを脅かして金を取り、八百長競馬に賭ければ、親に迷惑をかけずに結婚式の資金が作れると考えた。そして、数日後、かねて養父の許から持ち出していたあいくちを持ち、セロテープで顔にガーゼを貼りつけて人相を変え、七時二〇分頃洋品店に行き、客を装い奥さんに品物を提示させた。八時にならないうちに早く、と思いながらも、かねてその温和な人柄に好意をもっており、しかも全くこちらを疑わない奥さんに対し「金を出せ」とは言えなかった。しかし、次々に品物を代えさせるので、奥さんが「この人は一体どういう人なんだろう」といぶかしげな表情をしたのを見て、途端に気が楽になり、「三万円程貸せ、声を出したら命もらう」という言葉が出た。「誰か!」と呼び立てる奥さんの声を聞き、自分の今言った言葉に縛られるようになってあいくちを待った手が動き、奥さんの胸部、腹部等を滅多突きにし、一四か所に及ぶ刺切創を負わせて殺害した。その時は八時になってしまっていたため、何も知らずに裏口から帰宅してきた御主人をも同じあいくちで滅多突きにし、頸部、右胸背部等に一一か所に及ぶ刺切創を負わせて殺害した。店のレジスター内に売上金は収納されてなく、金銭は全く奪取できなかった。

  5.  犯行直後に現場で死体の状況を検視したが、店の土間には髪を乱して奥さんが倒れ、裏口には御主人が倒れ、迫って来る凶刃から逃れようとして血だらけの手で壁にすがったのであろう、血に染まった五本の指の跡がつき、あたり一面血だらけで、なまぐさく、血の海とはこういう状態をいうのかと思った。
     自供内容は補強証拠により裏付けられた。またガーゼで人相を変えたことを取調べの途中にふと供述したので、警察官に探しに行ってもらったところ、供述どおり、ガーゼとセロテープが寮の押入れの奥から発見された。行きつけの店にあいくちを用意して行ったことなど、事前の計画的殺意の存在を思わせる証拠があったが、買物客の少ない時刻に人相を変えたことは、安易な発想であるが、同君の供述した犯行態様に添う証拠の一つと考えた。
     取調べが全部済んだ時、同君は「この前の事件(前記強盗殺人事件) で服役中、もう悪いことはしない。まして人をあやめるようなことなど絶対しないと心に固く決めていたのに、また.罪のない人を二人あやめてしまった。ぼくは死刑になるしかありません」と暗然と語った。

  6.  捜査の結果では、同君は生後すぐ実母に捨てられ、漁師さんの家にもらわれて養育されたが、空襲で家を焼かれ、貧しい家庭環境の下で小学校へも満足に行けず、また中学生の時、それまでかわいがってもらっていた両親が実父母でないと知り、騙されていたと思ってショックを受けたという(「そういう考え方をする子供でした」と語った)。そんな時万引をしてつかまり、その後悔い改めるよりも不平不満が先きに出て非行の回を重ね少年院に収容され、世間から非行少年のレッテルを貼られるようになった。人の目が特に気になるころで、自分も自分自身に対する評価を下げた。

  7.  取調べ中に、一七歳時に犯した強盗殺人被告事件の時「あまり弁護してもらえなかった」と語ったので、取寄せて手許にあった確定記録を調べてみた。事実認定上も法律適用上も、弁護人の立場からは弁論の余地のある事件のように思われたが、国選弁護人の弁論は公判調書には「被告人は少年でありますから何とぞ御寛大な御判決をお願いします」とだけ記載されていた。

  8.  捜査、公判を通じ心が通い合うことも多く、実の弟がしたことのように思えた(弟はいないが)。生育歴、金銭の奪取はなかったことその他、酌量すべき点はあったが、度重なる生命軽視の犯行であり、被害者や遺族の悲しみ、無念さ、その他の情状を併せ考え、上司の決裁を得て死刑を求刑した。弁護人は熱心に弁護されたが、判決も死刑の言渡しがあった。控訴する気はないと言ったが、弁護人は控訴を勧め、私も助言し、控訴はしたが、そこまでで、上告はせず、第一審の死刑判決が確定した。

  9.  全く何の落ち度もないのに惨殺された被害者の御夫婦は、近隣の人たちや知人からいつも好感をもたれていた温厚なお人柄で、当時二三歳、二〇歳、一八歳の御子息がおられたが、あの後どのような辛い思いの下で生活をされたことであろうか。

  10.  死刑判決確定後、暫くして、H君から面会してもらいたいという手紙をもらった。法に違反して重い罪を犯したからといって、その人の人間としての価値は否定することはできない。同君とは捜査、公判を通じ気持のふれ合うことがあった。拘置所へ他の事件の被疑者の取調べに行く際、所長の許可を得て、時間を割いて、他へ転勤するまで度々面会した。
     同君の心の支えになるようなことは何も話してやれなかったが、キリスト教に入信していた同君は、面会室のガラス窓に顔を押しつけるようにして、一生懸命にいろいろ話した。自分の犯した行為に対する自責の言葉。聖書を繰り返し読んでいること。りっばな教誨師さんのこと。また全財産を被害者の遺族に贈って養老院へ入っていた養父が、亡くなる前々日に 「息子と一緒に次の世で暮したい」と泣き、そのために必要ならばとキリスト教に改宗する洗礼を受けたと聞きました、と話して涙を流した(この養父の人は、死刑判決を言渡して裁判官全員が退廷すると、私に「息子に一言」と断って近付き、「この馬鹿者!」と叫んでその顔を一回平手打ちし、あわてて私が制止すると、烈しくむせび泣いた。後で、私が「お父さんの気持はわかるね」と話すと、同君は深くうなずいた)。
     また、同君は、「あの時平田さん(いつの間にかこのように呼ぶようになつた)に自供したが、房に帰り、しまった、しやぺるんじゃなかったと後悔したんですよ」とか、どうせ死刑になるんだから先きに自殺してやろうと、いろいろ手段、方法を考えたとか、また人間としてしてはならないことをした上、今度死刑になる、なさけない身分の気持をどこにぶつけて、淋しさ、恐ろしさを紛わそうと、看守さんに対してあばれまくったこと、そんな長い苦しい月日が過ぎたこと、その後神を信じて永遠の命を与えられると知ったことなど心の揺れ動きを語った。
     それと共に、奉仕のため点訳をしたこと(死刑囚には定役がない)、信仰を持たない私に対する聖書の話をしたついでに、どことかの大学の先生は、聖書のこういうところをこのように解釈しているが、どうもまちがっていると思うとか、また面会に来てもらえる今日はいろいろ話したくて三時頃から目が覚めてしまった(拘置所は早寝で、たしか午後九時就寝である)など、あれこれ、死刑執行命令がいつ来るかわからない、死と毎日対面している孤独な日々の中でユーモラスに気らくに語った。私が何を言っても誤解せず、すなおに聞いてくれた。
     また、独房内でガラスの空き瓶に生けた花の葉を毎日何回も水できれいに洗ってやるため花も葉も何か月も生き生きとしていること、房の高い窓から毎日同じ鳩がやって来て掌にとまり、唇に含んだピーナツを食べていること(運動の時に同君がピイッと口笛を吹くと塀の上の鳩が一羽飛んで来て同君の肩にとまる、と看守さんも話した。死刑囚には小動物を虐待する者もいる)。その窓から見える、ある時は手鏡に写して見る雲の動きから翌日の天気が当てられることなど、時間を惜しみ、はにかみながら、輝くような笑顔で語った。
     烈しい心の苦しみの果て、狭い独房の中で、運命を受け容れ、また生命を慈しむ気持が芽生え、一輪の花、一羽の鳥、一ひらの雲にも貴重な価値を与え、現実を豊かに充実させて生きていたのであろう。今までどうしてこのように、静かに眺める目、こまやかに思いやる心が失われており、生命尊重感情が覚醒しなかったのかと心が痛んだ。

  11.  判決確定後死刑執行まで六年間文通した。同君から、私、妻、一人娘の美加宛てに二八〇通余りの手紙をもらった(その手紙は今も大事に保管してある)。出張した時には、私はその土地の絵はがきを貫い、景色の一番きれいそうなのを選び、それにへたくそな字を書いて同君に出したが、塀の外の景色を見る機会が全くないので楽しみにしてくれていた。
     同君は子供好きで、私が口にしていた娘美加に手紙を書かせて下さいと願い、娘が小学校一年生当時から娘とひんばんに文通し、やがて一緒に習字を勉強したりして可愛がってくれた。その娘が六年生の時、「ぼくが苦しく淋しかった時、美加ちゃんのパパが、ぼくのとりとめのない話をじっとだまってまじめに聞いて下さる、そんな時が一番心のやすまる時でした」などと手紙に書いてくれたりした。また娘がその頃、私の好きな古今亭志ん生の落語「千早振る」を覚え、それと妻と娘がクリスマスの歌などを歌って入れたテープを年末に送ったところ、今度はその裏面に、同君が「へたですがまあ聞いて下さい」と舌つづみで「荒城の月」などを上手に拍子を取り、看守さんが上手に尺八で吹奏してくれているテープを送って来たりした。

  12.  同君は、少年院帰り、前科者と社会の人間からさげすまれたこともあって、友達に恵まれず、それらのことも同君の犯行の大きな原因と思われた。また、同君の手紙には 「戦災で家を焼かれ、学校へはまともに行きませんでした・・・学校で学んだものは、ぼくには何一つもありませんでした」などとあった。それを読んだ時、心のとがめるようなぜいたくな回想であるが、私は自分が学生時代勉強はしなかったが、優れた師友に恵まれた幸せを思った。

  13.  また、そのころの手紙に 「神様は『わたしを信じ、心の底から悔い改めるならすべて許す』と聖書は語ってくれていますので、一生懸命悔い改め、悔い改めています。・・・神はこんな大バカ者にさえも、こんな罪深い者をも永遠にまでも『わたしの子としてやろう』と言って下さいます。ぼくはこれが喜ばずにおれますか。何と大きな希望が与えられている事でしょう。死刑囚となって、生まれてはじめて、ぼくは人としてこの世に生まれさせてもらって本当にありがとうと心の底から感謝する事を覚えました・・・」などとある。
     幸福の実感は人それぞれのものであるから、同君が客観的には最大の不幸と思われる状況下で、このように救われているという心境にあることを、同君のために喜びつつも、信仰を持たない私には何か痛々しくてならなかった。

  14.  死刑執行の時、私は司法研修所の検察教官をしていたが、同君が前から、執行の通知が来たらと係官に頼んであったので、電話連絡を受け執行前日に会うことができた。妻と中学一年生になっていた娘が前の晩泣きながら折った数十羽の千羽鶴と、娘が「おじちゃんと一緒に連れて打って下さい」と書きつけた,娘が大事にしていたこけし人形を持って会いに行った。
     こんな嬉しそうな顔をしてくれてと、刑務官六名の厳重な誓戒の下に (その警戒はすぐ弛んだが)、テーブルを間にして話したが、私は悲しさに堪えられず、語るべき言葉を失った。憂うつに堪えず、学生時代から寸暇を惜しみ、あれこれ本を読みちらし生きることの意味を考えてきたが、こういう時にこそ同君に役立ちたいのに、信仰を持たず、思索も浅い私には、今日限り別れる日にこれという慰めの言葉も別れのあいさつもできず、痛恨の思いはいつまでも心に残った。

  15.  同君はかねて語っていたが、「人が生まれて悩みを受けるのは、火の子が上に飛ぶにひとしい」(ヨブ記五の七)と、神が与えてくれる永遠の命と比べたら、一番大きな人の悩みも人の命も火の子がパチパチッと上に飛んですぐ消えてしまうのと同じで、現世の命は瞬く間のことで、「三八歳で死のうが、八〇歳まで生きようが大した違いはありません」と笑顔を交えて淡々と語った。また、「取調べの時、ぼくがふてくされていて、平田さん、自白が取れず閉口してましたね」とか、二人の間の思い出話をして笑い合ったり、家内や娘の話をしたり、またかえってこちらを励ましてくれるなど話は尽きなかった。二時間程話して夕方別れる時、翌朝に迫った死を心では覚悟していても、身体は生きたかったのであろうか、別れる時握手した両手をいつまでも離さなかった。
     同じような人間なのに、と帰りの新幹線のなかであふれる涙を怺えることができなかった。数日間コーヒーのような色をした尿が出た。

  16.  千羽鶴とこけし人形と私たち家族三人の手紙と写真を身につけて落ちついて刑の執行を受けたと風の便りに聞いた。
     小包の表紙の宛名を自分で書き、切手も貼ってあって、遺品として送られてきた小包の中には、所内の音楽会、体育会で六年間に賞品としてもらったタオル二枚と石鹸二個が、何も上げられるものがないからと、使わずにそのまま美加あてに遺されてあり、娘は「こんな大切なものを。おじちゃんが自分で使えば良かったのに」と泣いた。また二か月前の中学の入学式の日の写真をもとにして鉛筆で一月余かかり執行の前の晩完成させたという娘の大きな肖像画と、毛筆で執行日の朝まで書き、硯と毛筆を洗ったあとは更にボールペンで書き綴って「長いこと家族の一員としてあつかってもらってぼくは世界一の幸せ者でした」と繰り返し過分の謝意を述べてくれ、「ぼくは今日希望と喜びをもって主のもとに出発します」と永生の命の喜びを述べた手紙が同封してあった。

  17.  凶悪無惨な犯行があり、また被害者やその遺族の悲痛な気持ちを考えると、死刑判決言渡ししか仕方がないような事件もあると思う。そのためどんなに悪いことをしても、国家が犯人の生命だけは保障することとなると言われる死刑全面廃止論には、なお疑問を感じる。しかし、罪を犯した者も裁判時に証明された社会的危険性を皆がいつまでも持ち続けるものではない。歳月の経過等により社会感情が著しく変化し、更に被害者遺族の心の痛みに対する心配りや給付金等の制度を充実させることにより、極めて困難であるが被害者感情が和らげられることもあり得ると思われる。事情が変化すれば処遇も変るべきであろう。死刑判決後、具体的妥当性の理念により判決内容の固定性を修正緩和することが許される場合もあるのではないだいだろうか。

    (この文章は、平成六年に奈良弁護士会報に載せたものに、加筆してみたものです。平成一八年二月)
(平成20年6月)