竹中省吾さんは,昨年12月,突然に自死をされました。数日前に全国紙のトップを飾った注目すべき判決を言い渡した直後だけに,その与えた衝撃は大きなものでした。
私は,同期の裁判官として,任官以来,彼と親しくつきあってきました。その日の夜,テレビで訃報を知った時の驚きは言葉では言い表せません。
翌朝,たまたまほかの用事で休暇をとっていましたが,何をさておいても,彼の自宅に駆けつけないではいられませんでした。2階の部屋に通され,彼とお別れをすることができました。いつも通りの端正な顔は,まことに穏やかなもので,今にも起き上がって「よう!」と声をかけてくれそうに見えました。傍らの奥様は,通夜の席と告別式では大きく泣き崩れておられましたが,このときは,まだ,ことが実感できないご様子で,泣きはらしたお顔ではありましたが,案外しっかりと,どうしてこんなことになったのか,どう考えても腑に落ちないと,ぽつりぽつりと話をしていただきました。定年までわずかあと一年足らずだったので,仕事がしんどいなら,いつ辞めてもいいよ,辞めたら,息子達のいる関東に引っ越ししようか,忙しくてゆっくり旅行もできなかったので,定年後は沢山旅行しようね,と二人で約束し合っていたのに・・・。以前にした大病は完治し,健康には何も心配することはなかったのに・・・。この日も,昼間は歯医者に行き,その帰り本屋にも寄って本も買ってきた,いつもの土曜日だったのに・・・。
彼が死を選んだ理由は分かりません。詮索することにどれだけ意味があるかも疑問です。マスコミ記者の中から,あの判決に対して,どこかから不当な圧力でもかかっていたのではと疑う声も聞こえてきましたが,そのような気配,疑念は全くありません。
彼は仕事に徹する人でした。神経をとぎすませ,心を配り,考えに考え抜き,いつも最良の判決をめざしていました。時間に追われる仕事は,常に完璧というわけにはいかなかったかもしれません。彼は,そうしたことで悩むことが少なくありませんでした。悩むことは裁判官の宿命ですが,彼の良心は,いつも100パーセントの仕事を求めて,特に,自らを追い込みがちなタイプでした。たまに,もうしんどい,裁判官をやめたい,と弱気の言葉を,親しい人にもらすこともありました。もちろん,本気ではなく,すぐに元気を取り戻してはいましたが・・・。そんな張りつめた姿勢が,あの日,緊張の糸が一瞬のうちに切れるように,一気に安息を求めて死への誘いに負けてしまったのでは,そんな憶測をしてしまいます。
私事ですが,私の娘が裁判所職員となり,H家裁に採用されたとき,そこにまもなく所長として赴任したのが,竹中さんでした。長年の親友とこのような形で新たな縁を持つことが面白く思われたものです。そして,その娘が結婚し,子供が生まれました。私にとっては初孫です。その誕生の翌日,私は,孫の顔を見るためにK市の病院を訪ねましたが,とんぼ帰りで帰宅したその夜に,彼の訃報を知ったのです。晩年は,私のことを,弟のような気分で接してくれた竹中さんでしたが,彼とつながる運命の糸を感じざるを得ませんでした。
たとえ,彼の死の動機がどのようなものであれ,その数々の名判決の輝かしい価値を失わせるものではありません。彼の仕事は,誰しもが認めるところです。
竹中さんのご冥福を祈ります。そして,奥様はじめご家族の皆さまが,悲しみを克服されて,彼との素晴らしい思い出の中で,元気を取り戻されますことを強く願ってやみません。
|